昭和50年11月23日 特別奉修委員
皆さんがこうやって、特別の奉修をなさる。朝の御祈念から引き続いて、そして一応朝のお届けが済むまで待って、そしてからこ御祈念ですから、随分時間が掛る訳です。朝の準備をしなければならないとか、色んな用件がある時などは矢張り心が急ぐ、忙しいなんか心の中にイライラする様な事もあろうけれども、例えば合楽で特別奉修委員の皆さんの場合は、そういうものが段々なくなって来ておると私は思うです。
私はそういう信心、そういう例えば時間でもです。本当に神様に打ち込む時間という時間が、段々多くなって行くと言う事が、楽しみの信心にならにゃいけない。ある人が「もうとにかく歳を取ったら、もう親先生の側へずうっとおって、もうおい出る時にはどこにでもお供して行けれる様なおかげを頂きたい」と言うて、昔ようお届けした方がありましたがね。もうそういうふうにならどれだけの時間を使うておっても、それが苦ではない。まあ例えば今朝の御理解にもあった熊谷さんの例を申しましたが。
親先生の事をお願いさせて頂いておりゃぁ、もうなぁんにんお願いせんでん自分も健康のおかげを頂くし、万事におかげを頂くもう親先生の事さえお願いしとけば確かにそれでおかげを頂いて来た。けれどもふっと気付かせて頂いたら、これは親先生の事をお願いすれば、自分がおかげを頂くというその条件のようなものが心の中にかすかにある事に気付かせて頂いてという熊谷さんのお届けに対して、信心とは素晴らしい事だなと、ただもうこれはもう教会の事をお願いせりゃ家ん事はおかげ頂きますよ。
もう親先生の事お願いしよりゃ、親先生の健康ばお願いしよりゃもう私だん絶対健康になりますよと、まあそこんところの体験も素晴らしいです。大概の人がそこへんの所で終わるようですね、それでも素晴らしい。けれどもその内容というものをです、言うなら神へ向こうて行く心と言うか、神徳を愈々高めて行くという信心になってくる時にです、そう言う成程人の事を願う自分の事は願わん、けれども人の事を願えば自分がおかげを頂くからという。言うならば心のあると言う事を気付かして貰う時に。
矢張り自分ながらさもしいものを感ずる。そこで「熊谷さんやっぱり、親先生の事も願うと同時に自分の事もやっぱし切実に願わなければいけませんね。」というもう本当に願わなければおられないという信心、勿論親先生の事は願う、そこに親先生のことを願うところに純粋無雑な、それこそもうただ、至高なものだけしかないという信心がある訳です。そういう信心にお徳を受けて行かない筈はないですね。勿論だから自分の事も、なら願わなければおられないという信心。
皆さんがこうやって特別奉修委員の方、委員と言うがこういう信心を続けておいでられる。段々朝の忙しい時だからと言うて、だいぶん減りましたようですけれども、なら皆さんだけはこの様にして残って、日曜たんべんに特別の奉修をなさる。それでいてイライラもなからなければ、是だけの例えば時間をさいておる様だけれども、そりゃ決して無駄ではない、というだけではなくてね、それだけであったらやっぱり熊谷さんのその感じられたそれと繋がる様な物があります。
けれども矢張り、そうして祈らなければ居られないという者だけが残っての特別奉修委員の御祈念と言う事になった時に、それは高度なものになる。同時に私は思うのにそう言う所から、私共の例えば四六時中と言うと語弊がありますかも知れませんけれども、本当に神様事に没頭出けるというおかげ、没頭出けるおかげというものは、こげん素晴らしい事はないです。これで私はお徳が受けられない筈はないと思う。
本当に神様事に没頭出けれる時間、それを例えばなら一週間に一辺のこの何時間かの時間をです、から一つの体験と言うか、本当に「神の用を足しとりゃ氏子の用は神が足してやる」と仰るその事実を言わば身に付けて、いつもが神様の御用であったら、どんなに素晴らしい事であろうか。神様がそれこそ「氏子の用は神様がたしてやる」と仰る程しのおかげそれはもうすでにおかげの世界ではなくてお徳の世界、お徳を受けて行くと言う事になる、そう言ういわゆる崇高な物と言うかね、一段と信心の境地が開けて高められて行くおかげを頂かなきゃならんと思うですね。
どうぞ。